いきなり自然科学って言うか哲学寄りなお話で恐縮なのだけれど、「テセウスの船」というパラドックスがあります。
テセウスがアテネの若者と共に(クレタ島から)帰還した船には30本の櫂があり、アテネの人々はこれをファレロンのデメトリウスの時代にも保存していた。このため、朽ちた木材は徐々に新たな木材に置き換えられていき、論理的な問題から哲学者らにとって恰好の議論の的となった。すなわち、ある者はその船はもはや同じものとは言えないとし、別の者はまだ同じものだと主張したのである。
テセウスの船-Wikipedia
つまり、もとのモノからちょっとずつ中身が入れ替わっていったとき、それは元のモノと同じモノと言ってよいのか?
という問いかけなんだけれども、このパラドックスに対するアプローチというか回答は、「同じ」の定義によって変わってくるようです。
つまり、「同じ=形状の同一性」なら、同じ形状なら同一とみなす、とか、「同じ=質の同一性」なら、同素材同設計なら同一とみなす、とか。。。
しかし結局これは、定義=人の決め事が結論を左右するという点で、いわゆる科学的というよりは、法律や経済同様の社会科学的な論理に見えますね。
では、SFでよくみられるアイデンティティへの問いかけに、
僕の脳みそが毎日1%ずつ、完璧に脳の機能を模倣する機械に入れ替わった場合、100日後のソレはまだ僕なのか?
というのがあります。
もちろん形状も質も変わっているんですが、今回はそれ自体がどう感じているかという側面があるので、船の問題とは少し違ったものとなります。だって船は考えもしゃべりもしないからね。
もちろん100日後のソレは100日前の自分と同一であり、連綿と継続している存在であると信じて疑わないでしょうが、元の自分は1%づつ死んでいるとも考えられます。
一気に電脳世界にコピーされるとか、一瞬で機械に置き換わるのなら何となく直感的には、オリジナルの自分は死んでしまって、心の底から僕のつもりになっているモノマネ人形が誕生しただけ、という気がするんですが、徐々に置き換わるとなると、何とも歯切れの悪い解釈になってしまいそうです。
いったい何%を超えたら僕じゃなくなるのか?
僕にとっての僕とはなんなのか?
電脳世界での転生を、「不老不死イェ~イ!!」と喜べるか、モノ言う墓標ととらえるか、考えるとキリないよね、っていうお話でした。